2021年11月10日
背番号1 キックオフ
「北に陽を目指して」は、2006年~2007年に毎日新聞大阪開発株式会社の「毎日ジュニアサッカースクール」のホームページに掲載していた真実の物語です。掲載を開始した頃、北陽高校は、まだ伝統を引き継いだ男子校であり、生徒数の減少が深刻化していました。「おい猪井!どうするんや。このままやったら、学校つぶれるぞ」と先日旅立たれた鈴木先生がよく話されており、当然まだ土のグラウンドで、現在の関西大学北陽高校に生まれ変わる少し前だったと記憶しています。
当時、原稿作成にあたっては、野々村監督をはじめ、OBの方々や筆者の記憶、毎日新聞社の膨大なデータベースなどを基に作成し、完成した原稿は野々村監督の校了を得てから、ホームページに掲載していました。
早いもので2006年から15年が経過し、新たに発見された「昭和の恐い話」もとい「昭和の深い話」なども、随時加筆できれば紹介したいと思っています。そして、この物語の登場人物の肩書やポジションは、2006年~2007年当時のものです。固有名詞、対戦相手、スコア等々で誤った記述があった場合は、全て筆者の責任です。
昭和の時代は、土のグランドでのスライディングが当たり前。照明もない。雨が降ったら水たまりは当たり前。ボールは重たい。水は飲めない。冷房もない。コンビニもない。パソコンやスマホもない。練習が始まってから、今何時かわからない。何本走ったかわからない。そんな時代だからこそ、「昭和は何でもありの時代」でした。
「お前はもういらん。走っとけ」ひたすら走り続けると「いつまで走っとるんや。陸上部とちゃうぞ。走るだけでサッカーは上手くならん」と言われ、父母の会では、「息子は監督さんに預けてます。死ぬまで走らしてもろて結構です」との発言があり、週に2回来た救急隊員から炎天下の中、「おたくのところは、いったい何の練習してはるんですか?」とマネージャーに問いただし、試合前には、「恥ずかしい試合をするな。負けたらマネージャー以外全員坊主や」ハーフタイムでは、「全員スクワット100や。終わったら2周競争。遅い奴は交代。水飲むのはそれからや」「後半5点取ってこい。5点入らんかったら、全員学校まで走って帰れ」と試練の道。グラウンドでのOBからのアドバイスは、「お前ら、こんなんでバテてどうすんねん。ニンニク思いっきり食うて来い」と。
そして、他校のサッカー部員たちは、「北陽のグラウンド見たか。小石ひとつ落ちてへん。ラインもピシッと真っすぐや。トンボの置き方も見たか」「北陽はあれでBチームらしいで」「試合終わったら練習らしいわ」「北陽が入って来たらな、会場の雰囲気がスッと変わるんや」とささやき合い、「あかん!最悪や。次、勝っても北陽や」とトーナメント表を見て嘆いたものでした。
様々な伝説とともに「北陽最強」と言われた昭和の時代。皆さま方に「R」付けて再びお届けいたします。※筆者追記・鈴木先生は2年B組・3年B組の筆者の担任。鈴木先生、在学中は色々とお世話になりありがとうございました。合掌。2021年11月作成。(背番号2につづく)