万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号16 昭和52年 夏  岡山インターハイ

昭和52年8月1日、筆者たち北陽高校サッカー部は、インターハイの大阪府代表として岡山県立陸上競技場で開会式を迎えていました。この年は未来の日本代表を支える、中田・宮本・柳沢・三都主などが生まれた年で、「渚のシンドバッド」「イミテーションゴールド」などのヒット曲が流れた年でもありました。

このインターハイ本大会に至るまでの大阪府予選の決勝は、当時、因縁の対決とも言える摂津高校との対戦。前半は1対0と北陽がリードして終了。後半に入ると摂津高校に1点を許し1対1のままタイムアップ。 そして、延長戦の前半は、両校互いに1点ずつ入れて終了。後半は両校ともに得点が入らず、延長戦を終え て2対2。引き続き行われたPK戦で、 北陽が3対2で勝利し、インターハイへの出場権を獲得しました。

 

筆者たちにとっては、大阪府予選大会で優勝し、初めて全国大会への出場キップを勝ち取ったのですから、思い出に残る試合だったはずなのですが、不思議とこの決勝戦については、記憶が定かでなく良い印象もありません。決勝戦が行われたのは、6月12日 でしたから、筆者たちは予選で勝っても 「まだ6月やぞ。 岡山に行くまで合宿もあるし、しんどいのはこれからや」 と瞬時に気持ちが切り替わり、インターハイ本大会までの遠くて辛い道のりを想像していたのかも知れません。

想像どおり、インターハイ前に学校の体育館で行われた恒例の夏季合宿は、強烈、残酷、戦慄、灼熱、理不尽の極み。救急車も2回来ましたし、チーム全体がぎりぎりの極限状態まで追い込まれていました。奇跡的に合宿を生き延びた強運な選手だけが、こうして開会式を迎えることができたのです。

 

暑さを考慮したインターハイの開会式は、8月1日 (月) 午後4時から開始され、ピッチからスタンドを見上げると、猛暑の中、黒っぽいスーツ姿の一団がずらりと着席しており、その中心に現在の天皇陛下と皇太子殿下もお見えになっていました。

 

インターハイ本大会は、1回戦がシード。2回戦は当新田サッカー場で、東京都代表の修徳高校との対戦。試合内容などは殆ど記憶に残っていません。 微かに覚えているのは、田んぼの中に周囲を金網でぐるりと囲まれたサッカー場が突然現れたこと。試合当日も35度を超える猛暑だったことです。試合は1対1の引き分けでPK戦に突入。残念ながら、北陽はP K戦で敗れて敗退。筆者たちのインターハイは、8月3日 (水) に早くも終わってしまいました。

 

「これは大阪に帰ってそのまま練習やな」 と筆者たちは、半ば覚悟を決めていましたが、暑くて長い夏休みは、まだまだたっぷりと残っていました。後日、筆者たちは野々村監督がゴールラインに椅子を置いて、直接笛を吹くという最も好ましくないインターバルで死ぬほど走ることになるのですが、後輩たちに同じ轍を踏まさないために、北陽高校サッカー部の訓示として部室に大きく紙に書いて貼っておくべきだったかも知れません。「走っても死ぬな。死んでも走れ」 2007年5月作成。

 

※筆者追記・本文内の天皇陛下は、現在の上皇陛下、皇太子殿下は現在の天皇陛下。試合後OBから「監督大阪帰って練習しましょか」「いやっ、明日から徹底的にいくわ」恐ろしい会話が聞こえていました。暑いのに背筋が凍ります。(背番号17につづく)