万博ジュニアサッカースクール

北に陽を目指して「R」

2021年11月10日

背番号9 昭和51年 冬 新人戦

北陽高校サッカー部の歴史の中には、様々な伝説があります。伝説とは世間一般の人々が、簡単には信じてくれない「嘘のような本当の話」です。筆者たち昭和の時代はそんな伝説の宝庫でした。 今から振り返れば良き思い出と笑い話なのですが、当時筆者たちは、伝説を乗り越えていくために必死でした。

 

3年生が引退。1~2年生の新チームの目標は、チームづくりを行いながら、1月から行われる新人戦での優勝です。新人戦の結果によって和歌山県で開催される近畿大会への出場権が決まります。茨木市室山の関西大倉高校で行われた新人戦では、対戦相手校こそ忘れてしまいましたが、試合後からが伝説の始まりでした。

試合は前半、北陽がリードして折り返しましたが、試合内容があまり良くありません。 野々村監督のハーフタイムでの指示は、「後半5点取ってこい」 でした。試合は後半に3点位取って、かなりの大差で勝ったと記憶していますが、終了後に筆者たちを待っていたのは、「5点入らんかったな。全員でグラウンドまで走って帰れ。荷物はOBの車に積んでボールは自分らで持って行け。道がわからんかったら聞いて走って来い」まさに 試練の道。「ボール持って上新庄まで走って帰れ」 でした。

 

「すいません。上新庄はどっちですか」 昼過ぎに関西大倉高校をスタートした30人弱のジャージ姿の軍団が、ハアハアと息を切らせながら、ボールだけを持って街中の人々に道を尋ねているのは異様な光景でした。

「おい、みんなちょっと待って。ここ親戚の家や」偶然にも2年生のN岡さんの親戚宅前です。N岡さんが事情を話し、親戚の方から選手にみかんを分けていただき、皆で道端に座ってみかんを食べていたのも異様な光景でした。

 

「来るときは阪急の茨木から30分位バスに乗ったで。バス停に沿って行ったら駅やろ。南はこっちやろ」 などと相談しながら、筆者たちは上新庄のグラウンドに向かって足を進めていきました。不幸中の幸いなのでしょうか、グラウンドのすぐ近くには、電電公社(現NTT)の紅白の鉄塔が高々とそびえ立ち、遠くからでも結構良く見えて、走る方角と自分たちの位置関係を知る目印となりましたが、鉄塔が近づくにつれて憂鬱になり、グラウンドでの自分たちの次の姿が想像できました。

 

グラウンド到着後、野々村監督から、「お前ら、茨木からここまで走って帰るだけやないか。たったそれだけのことにどれだけ時間かかってるんや。道がわからんというのは理由にならん」グラウンドで引き続き、車のヘッドライトに照らされて徹底的に練習が行われ、長い長い1日がようやく終わりました。

 

今回の 「ボール持って上新庄まで走って帰れ」は、相当効き目があり、後日別会場で行われた新人戦では、「走って帰れ」と言われても道に迷わないように、上新庄までの方角や目印、道順な どを事前に調べていた選手もいたと記憶しています。

筆者たちは、ここでサッカーを通じて人生何事においても共通する大切なことを学びました。「備えあれば走りなし」2006年12月作成。

※筆者追記・現在でしたらスマホで簡単に道順や方向、距離などはすぐに分かります。

ちなみに調べてみますと、関西大倉高校から上新庄の北陽グラウンドまでは、約22kmでした。(背番号10につづく)